人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。
小山高朝は、はじめ小田原の北条氏によしみを通じていたが、永禄五(一五六二)年上杉謙信の大軍に攻められ、人質を出して降参した。
高朝のあとを継いだ秀綱は、北条氏政から何度も復帰を求められたが、拒み続けた。小田原勢が、再々攻めて来た。元亀三(一五七二)年にも、氏政が大軍を率いて攻め寄せたが、秀綱はようやく撃退した。
秀綱の弟の晴朝は、祖父にあたる結城正勝の養子にもらわれ、結城の城主になった。正勝は勇猛な武将で、北条市の配下だった。養子の晴朝も、小田原方として働いた。
こうして、秀綱・晴朝兄弟は、敵味方になってしまった。天正二(一五七四)年五月、北条氏政がまたまた小山城を攻めたとき、晴朝は小田原勢に加わって出陣し、戦功をあげた。彼は、おいの高綱が守っている榎本城まで進攻し、そこを攻め落としたといわれる。小山氏と結城氏とが、兄弟どうしで合戦していたのでは、このあたりの情勢はとうてい安定しない。常陸の佐竹義重は、下妻の城主多賀谷重経に言いつけて、兄弟を仲直りさせようとした。重経は秀綱と晴朝とを説いて、小山と結城の中間にある北山で会見させた。重経の骨折りが実って、兄弟はめでたく握手した。
和睦の喜びをいつまでも忘れないために、それまで北山といっていた地名を、中久喜と改めた、と伝えられる。そして、そこにある坂は、いまも和談坂と呼ばれている。