人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。
黒田の鎮守・八幡宮の北のほうに、むかし、大きいフジが枝を広げて、路の向こう側のナラの大木まで蔓をのばしていた。花どきになると、白い花房が無数に垂れて、見事なながめだった。「黒田の大フジ」といわれて、近在の名木の一つに数えられた。
ところが、花のころに暗くなってからここを通ると、おばけが出て頬や襟首をなでる、といううわさがたった。おばけになでられて逃げ帰ったものは、一人や二人ではなかったから、「大フジのおばけ」は界隈の大評判になった。花どきに限らず、昼間でさえ、ここを通る人はびくびくもので、なるべく回り道をするほどだった。
ある年、フジの花盛りのころ、塚崎の名主の家に、領主の家来が泊まった。彼は、剣道の達人だった。おばけフジの話を聞くと、太い腕をさすりながら言った。
「わしも、おばけどのにかわいがられてみたいものだな。」
夜がふけるのを待って、彼は一人で出かけていった。教えられたとおりに、暗い田圃道をたどった。ときどきカエルがコロコロと鳴くばかりで、静かな星空が広がっていた。ようやく、大フジまでやって来た。闇夜のことで見定めにくいが、白い姿がふわふわと動く。ひと足ひと足近づくと、ひやりと顔にさわるものがあった。武士は、とっさに白い影を切り上げ、あたりを切りはらって、何事もなかったように名主の家へ帰った。
翌朝、百姓たちが大ぜい見に行った。路上いちめんに、白い花をつけた枝がたくさん落ちていた。その切り口を見ると、いずれも鋭い刃物ですっぱりと切られていた。人々が帰って来て、名主にようすを話した。そばで聞いていた武士は、笑いながら言った。
「ばけものの正体見たり枯れ尾花、というところだな。」
人々におそれられた「大フジのおばけ」は、白いフジの花だったのである。武士がたくさんの花房を切り落としたのは、村人に正体を教えるためだったのだろう。