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小山の伝説

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山の伝説

お知らせ大判小判 (小山)

 源頼朝に仕えた小山朝政は、奥州征伐のとき、めざましい手柄をたてた。頼朝は彼に新しく領地を与え、そのうえ、ぶんどったたくさんの金銀をほうびにくれた。そのお金は、将軍からいただいた宝物として、代々の城主がたいせつにうけついだ。
 朝政から六代目の小山貞朝は、新田義貞が鎌倉の犬公方、北条高時を攻めるために兵をあげたとき、これに応じて出陣した。彼は、世の中が乱れてきて平和がもどりそうもないと思い、出征にさきだって、金銀財宝を城内の奥まったところに地中ふかくうめた。万一のとき、敵の手におちるのをおそれたのだった。
 貞朝、不運にも、相模の国で戦死してしまった。秀朝があとをついだが、彼も北条氏の残党と武蔵の府中で戦って武運つたなく討死した。建武二年のことで、父の死後わずかに二年だった。関東の名家として聞こえた小山氏は、意地悪な邪神に見こまれたらしく、その後も代々が若死をしたし、秀朝から四代目の小山義政のとき、室町幕府の軍勢に攻められてとうとう滅亡した。そんなわけで、莫大な金銀を埋蔵した場所は、ついにわからなくなってしまった。幕府のさしがねで、分家筋の結城氏から泰朝が入って、小山氏の名跡をついだ、彼は、小山の城中にも財宝がかくされてあるに違いないと思って、手をつくして調べたが、だれひとりありかを知るものがない。ありそうな場所をそこここ掘らせてみたが、宝物は出てこなかった。あまり残念に思い続けたせいか、ある夜、彼は夢の知らせをうけた。

 朝日さす 夕日かがやく
  三つ葉うつぎの その下に
   黄金千杯 白金千杯

 このように、夢の中に現れた白髪の翁がうたったのは、金銀のありかを教えているのだと思って、彼はこの歌の文句を昼も夜も考えた。まずウツギの木を探したが、城内には一本もなかった。義政の旧臣たちを召し出してたずねたが、彼らの記憶のそこからも、手がかりになるものは生まれってこなかった。城中の知恵者が集められ、いっせいに首をひねったが、歌の意味はどうしてもわからずじまいだった。そして、歌の文句だけが、金色の謎を秘めて、いつまでも伝えられた。
 泰朝の子孫は、豊臣秀吉に滅ぼされた。徳川家の天下になってから、名奉行とうたわれた大岡越前守が采配をふって、「小山城の大判小判」の発掘が行われたという。また、二百年ほど前の明和年間にも、古城のあとを大がかりに掘ったが、何も発見できなかったといわれている。こんにちと違って、電波探知機というようなものはなかったから、さぞかしたいへんな骨折りだったことだろう。