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小山の伝説

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山の伝説

お知らせ獅子の面(小山)

 小山持政が小山の城主だったころ、関東地方は大名の勢力争いが激しくて、毎日どこかで合戦があるようなありさまだった。持政は、小山城をもっと堅固にしようとして、城郭をひろげ、城のまわりに高い土塁を築き、堀を深くした。そのとき、中久喜の北山城にあった牛頭天王(のちの須賀神社)と稲荷さまとを城内の東寄りに、また、万年寺(のちの天翁院)を
東北部に移した。
北山の牛頭天王は、田原の藤太秀郷が平将門を討ったとき、北山に城を築いて、鎮護の神として勧請した、といわれている。それから五百年もの長いあいだ、天王さまのお祭を続けてきた村人たちは、
「いくら小山のお殿さまでも、取り上げてしまうのはひどすぎる。」
と、不平を言った。だれもが同じ気持ちだったから、大ぜいで小山へ談判に行った。やっさもっさのあげく、両方から代表者を出し、あらためて交渉をすすめることになった。
小山方では、殿さまがついているのだから、北山連中の言うことなどきく必要はない、とがんばる者が多かった。しかし、むかしから仲よくつき合ってきた氏子同士がけんかしてはいけない、と反対する人も少なくなかった。小山の名主もお奉行も、まとめるのに困った。
このごたごたが殿さまの耳に入った。殿さまは奉行を呼んで言った。
「祭りの当日、北山の者が獅子の面をかぶって行列に加わらないうちに、お神輿の渡御をしない、ということにしてはどうか。」
「それは、まことに名案でございます。さっそく、そのようにはからいましょう。」

奉行は城を退出して、名主に話した。
名主が人々に告げると、残らず賛成した。そして、荒れもようの北山方をなだめるために、一刻も早く代表を出して、相談をまとめることになった。
一方、北山では、小山からなかなか申し入れがないのでやきもきしていた。早くらちをあけよう、と代表が選ばれ、小山に向かって出発した。
双方の代表者が、北山城の坂道でばったり出会った。小山方が用意の案を示すと、北山側にも異議はなかった。北山の人々が参加しないと祭ができないことになるのだから、北山方のほうが格が上である。即座に、めでたく話が決まった。
こうして、毎年の祇園祭には、北山の人たち四四の十六人が二列になり、先頭の四人は大きな獅子の面をかぶり、囃子方など大ぜいつき従って小山へくりこむことになった。そのしきたりは、五百年後のこんにちまで続いている。
持政は、天翁院裏四・五ヘクタールの土地を、獅子の面の料として中久喜連中に与えた。いまでも、獅子免という地名が残っている。免というのは年貢のかからない田畑のことで、獅子免とは「獅子面のための免税地」の意味である。
北山の天王さまのあとには、茶の木を植えて記念とした。祇園祭の当番にあった人々は、初夏にそこの茶の葉を摘み、祭の当日獅子の面をかぶった人たちにそのお茶で接待する習わしだったが、明治のなかばごろからすたれた。
なお、小山・中久喜の代表者が出会った場所を、なごやかに話がまとまったところから和談坂といい、今後いつまでもこの喜びを忘れまいと誓い合って、北山の地名を中久喜と改めた、とも伝えられている。