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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

大谷地区

 

愛宕塚古墳

古木が生い茂る愛宕神社境内が古墳
城東5丁目、結城街道を北。富士通小山工場の東側に愛宕神社がある。かつて、この辺りの町名は「土搭」といった。
これが愛宕塚古墳で、神社は平坦な墳頂部に祀られている。墳形は載頭円錐形を呈し、墳丘は袴部から墳頂部にかけて急峻に立ち上がる。千駄塚の千駄塚古墳もこの例だ。直径約45m・高さ約10mの円墳で、昭和32年(1957)8月27日に県指定史跡となった。
裾部の外側、とくに西側と北側には5〜10mのわずかな窪みがあり、周湟の存在を思わせる。また、東側には東西に配列された方墳や円墳の形状をした高塚群がある。本墳の倍塚とみられていたが昭和50年(1975)の土地区画整理事業にともなう調査で、近世の供養塚とわかった。そんなことから本墳も供養塚との指摘もある。
境内3反9畝余り、150mの馬場の両側には老杉が並立し、古木が生い茂り神々しい。一名、百百塚とも呼ばれ、これらが訛って「土塔」となったといわれる。
 

中久喜城跡

小山氏ゆかりの城跡を電車が走る
中久喜城は市の東端、結城市との境界に位置し、河川によって開削された舌状台地を利用して築かれていた。
城跡は2つ曲輪(字城内・字西城)からなっており、南に対しても極めて堅固な構造で、いまも土塁や堀がくっきりと残る。
築城年代は不明だが、天正3年(1575)に秀綱が祇園城を開城するまでは、小山氏の支城となっていたはずだ。それ以降は結城氏の管理下に置かれ、天正18年(1590)8月には隠居した結城晴朝が入城し慶長6年(1601)の越前転封までその居城となっていた。
町割りなどから、ここは城下町として、家臣や商人・職人・農民など住んでいたのであろう。
市内には鷲城跡・祇園城跡など小山氏関係の貴重な遺跡が数多く残る。中久喜城跡も大切な史跡の1つだ。
いま、うっそうとした城跡を分断して、東西に水戸線の白い電車が走る。

 

血方神社の稚児神楽

可憐で華やかな稚児の舞い
血方神社の祭神は少彦名命である。近郷近在では昔から女人の守神として深い信仰を集めている。
春祭りは4月の15日〜16日。神楽殿で大々神楽が演じられるが、最も華やかなのが「五行の舞い」。小学2〜3年生の女の子、10人が2組にわかれて交代で舞う。昭和42年(1967)4月20日、市の無形民俗文化財に指定された。
少女達はそれぞれ緋衣・緋袴に白い薄衣の千早をまとう。天冠は緋の紐で顎のところでしっかりと結ばれている。左手に五行を表す五色の御幣、右手には手振り鈴を握り、1人が中央に座って4人はその周りを鈴を鳴らしながら方形に舞う。
清浄無垢なこの舞いには、見る人を魅了する可憐な美しさがある。いまでも田間地区では女の子が生まれると、この「稚児舞い」に出ることが家族の楽しみになっている。この日、母と子はもちろん、村人の心が通い合いひとつになる。

 

大谷中学校の桜

生徒達を見守り続ける桜並木
大谷中学校は昭和22年(1947)4月1日、新学制により開校。戦後の復興もままならないなか「教育は環境にあり」といわれるように整備に取り組む。26年の春には、校庭の南側に吉野桜60本・イチョウ10本・ケヤキ1本が植えられる。
雨ヶ谷地区の篤志家・中島政雄氏らが寄贈したものだ。かつてアメリカシロヒトリが大発生したときは、村民は一丸となってその駆除に努めたという。
昭和28年には講堂が落成。講堂は、卒業式・入学式などの学校行事だけにとどまらず、映画会・音楽会など村の社交場でもあった。木造校舎は老朽化に勝てず、昭和60年(1985)に近代的な校舎に改築され、かつての講堂も体育館に変わった。
桜はテニスコートの近く、大谷公民館に接して並ぶ。植えられてから今年の春で卒業生は8,862人。これだけの生徒がこの桜を見て巣立っていったのは確かだ。学校はもちろん、地域住民の大切な財産として愛護されている。
 

金山神社の桜

桜の花が咲くと小さい森は花見客でいっぱい
県道小山環状線の犬塚交差点を南へ折れたところ、大谷北小学校前の小さな森が金山神社だ。道路のすぐそばに石の鳥居が立っているからわかりやすい。
史料によると、鳥居は明治37年(1904)に氏子が奉納したもので、「氏子総代黒川新八郎」の名がみえる。境内の大きさは約811坪で一部がゲートボール場になっている。鉱山の神様・金山彦命を祭神とするが創立は不詳とある。
拝殿前の、寛延3年(1750)の年号が刻まれた一対の灯龍だけが、まちがいなく240年余りの時空の隔たりを証明している。
桜の木は道路沿いにあり、花が咲きはじめると地元民のみならず近くにある社会の人たちもここで花見の宴を開き、大いに賑わう。ゲートボート場には朝早くからお年寄りたちが集まり、ゲームを楽しむ。球音はお昼頃まで響く。

 

新4号国道の立体交差橋和談坂

兄弟の和睦の証「和談坂」
栃木県を縦に貫く国道4号線は、東京の日本橋を起点に青森市まで全長813qの日本最長の幹線道路。
昭和44年(1969)4号線の慢性的な交通渋滞を解決するため、埼玉県越谷市から宇都宮市までの全長80qの大規模バイパス「新4号国道」の計画が決定された。幅員38.5mで6車線、主要交差点はすべて立体という高い規格。
この辺りは昔「北山」といった。戦国時代、二人の兄弟が敵同士になり骨肉の争いが続いた。しかし、兄弟は小山と結城の間にあるこの地で和睦する。
その喜びを忘れないように「北山」を「中久喜」と改めた。なだらかな坂は「和談坂」と呼ぶ。






 

中央図書館と城東公園

豊富な蔵書とCDに利用者は大喜び
城東公園のすぐ隣が中央図書館。平成5年(1993)4月のオープンで、外観は薄いブルー。鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、延べ床面積約4900u、蔵書は約20万冊にのぼる。
最新設備の導入とあいまって1年間の入場者は20万人を数え、休日ともなると駐車場待ちの車が列をつくる。
目玉は何といっても8千本以上のCDやビデオテープ。2階のコーナーはちょっとした町のビデオショップを思わせる。
図書館も公園も、市民の生活水準の向上には欠かせない施設。生涯学習・余暇拡大にと幅広い活用が待たれる。








 

丸山弁財天神社

丸い池に小さい浮島
おやま遊園地から向野の運動公園へ向かう道を染宮造園で左へ折れ、一方通行をしばらく行くと赤い小さな鳥居が目につく。
この丸山地区には神社がなかったが、明治30年(1897)頃、当地に移り住んだ大塚家が生まれた長女の健やかな成長を女神である弁天様に託し、京都から勧請した。また、この地は昔からかんばつに苦しみ、8反歩ぐらいの天水場があった。こらを利用して丸い池をつくり、真ん中に小さい浮き島を浮かべ水の神様として祠を祀た。
最初、大塚家の氏神様だったのを、自分だけでなく地域のための守護神とした祀る。当時、28人の地域住民に1人3坪ずつの地主になってもらい、丸山地区の共有財産とした。御利益があるといっては、事業家がけっこう願掛けに訪れ、月参りをする熱心な人もみられる。二の鳥居は、丸山弁財天奉賛会の人たちの寄進による。秋の例祭、短い太鼓橋を渡り神前に御神酒が供えられる。しめ縄はもちろん真新しい。
 
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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