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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

桑地区

 

羽川大沼

かんばつ地域の悲願だった溜池づくり
大沼は、羽川の中心、国道4号線・東北新幹線の東側にある。南北に長く東西はやや狭い、周囲約2q、面積およそ11haの湖沼。わが国の治水・土地改良事業は、明治29年(1896)の可川法および同32年の耕地整理法などを契機とする。しかし、地主層は地代の増収につながり生産力を高める水量改良を区画整理よりも優先させた。
このため、耕地整理法は何度か改正され、明治42(1909)には用水と排水の事業が耕地整理の主な目的となる。
この新耕地整理法のもと、各地で組合が結成され活発な耕地整理事業が開始される。小山地区でも大正7年(1918)頃から本格的に耕地整理事情が実施された。
昭和3年(1928)12月2日、すべての工事完了を記念し、竣工式と記念碑の除幕が行われた。ここに、膨大な年月・経費・労力を費やし、人間の英知と努力を傾けた、江戸時代からの農民の悲願であった溜池が完成した
 

琵琶塚・摩利支天塚古墳

小山地方の古代史を物語る大きな古墳
市の北西部、壬生街道の飯塚地区の家並みを過ぎて、名刹台林寺のちょうど反対側のうっそうとした2つの森が、琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳。思川と姿川の合流点付近、その北方に大きく広がる。
いずれも前方後円墳で、全長は100m以上と県内最大級を誇る。円筒埴輪などの出土品から、5世紀末〜6世紀初頭の築造と考えられる。2つとも国指定史跡。
近くには、強大な首長が葬られたと思われる大型古墳が散在、遠く大和朝廷の時代に下毛野国を代表する首長たちの活躍の舞台となったことが想像できる。
遠足で、古墳のてっぺんからおむすびを転がしたのを思い出した。






 

白髭神社の湧き水

姫を助けた白髭老人の伝説
昔、神社の前で白髪・白髭の老人が臼を彫っていた。すると悪者に追われた美しい姫が助けを求め、老人はとっさに臼をひっくり返しその中に姫をかくまった−。
助けられたには、木花開耶姫命。「臼打」という地名が残る。
伝説にもなった「白髭神社」。喜沢分岐点のアンダ−をくぐって桑中通りの1本南側、広くなった市道13号線沿い「日本たばこ」のすぐ先にある。
清水は拝殿の前の岩の下からこんこんと湧き、敷きつめた玉砂利が透き通ってよく見える。ここから「室の八島」のように池がめぐり、鯉が遊ぶ。この森はドライバ−の隠れた休憩場所となっている。






 

小山運動公園の四季

施設も充実した運動公園は四季折々に美しい
昭和40年(1965)桑絹町が小山市と合併して現在の市域となった。人口が増え、スポ−ツ施設の拡充が急務となり、桑地区の「向野」に運動公園の建設が着工されたのは、昭和47年7月25日のこと。翌年9月には待望の野球場がオ−プンした。
巨人軍へ入った江川もここでトレ−ニングを積んだ。ヤクルトの広沢もこの球場でプレ−をした。市民スポ−ツの拠点として陸上競技場・テニスコ−トと施設が拡充され、総面積はおよそ20ha。日曜日ともなるとどこもフル回転だ。
園内には木々の緑がいっぱい。訪れる市民は思い思いに公園の四季を愛でる。







 

修道院の桜と雑木林

静寂な空気につつまれて咲く思川桜、ここが発祥の地
市の西北部、島田地区の思川河岸段丘上の雑木林に、昭和10年頃修道院ができた。周囲に吉野桜を植えると山桜と交配して、変異種「思川桜」の発見につながった。昭和29年(1954)のことだ。修道院とは、厳格な戒律のもと共同生活を営んで修業を積むキリスト教の修道士・修道女の団体やその寺院のこと。6世紀の初め、イタリヤで建設されたのを最初とする。従順・貞操・清貧を三大理想とし、修道士の養成所・学術研究所・図書館・福祉活動の機能を兼ね備えている。
脇の坂道を下ると釣り堀に通じ、その先は河原。車が通るくらいであとはいたって静かな森だ。竹林には市指定の円墳「東島田10号墳」が残る。径25m・高さ2mで径の割りには墳形が低い。雑木林を切り開いてつくったであろう墓地はいくつもの十字架の墓標が整然と並ぶ。神に召された御霊は静かに眠り、古代の奥津城とともに聖域をつくっている。
 

愛の橋(羽川小学校前歩道橋)

日本でも珍しかった歩道橋
羽川小学校は国道4号線沿いにあり、校門も道路側に面していたため、登下校の学童たちは日頃、交通事故の危機にさらされていた。そこで通学班を組織、集団登校する一方、上級生や先生たちが交通指導を行ってきた。この結果、学童の事故は減少したものの、相変わらず国道4号線は交通量が増え「死号線」といわれたように死亡事故が絶えなかった。
ときの桑絹町長・菅沼良太は次代を担う子供たちを輪禍から守らなければと、学校と協議して歩道橋の建設に踏み切る。昭和37年(1962)5月5日の子供の日。待望の歩道橋が完成した。当時の金額で工費270万円。長さ14m・幅2m・高さ5mの鉄筋コンクリ−ト製で、手すりと転落防止の金網が張られた。「愛の橋」と名づけられ、いまは2代目になる。「歩道橋」は当時全国でも珍しく、同じような事情を抱える日本各地から視察が殺到したという。こうして、いまでは珍しくも何ともない「歩道橋」はまたたくまに日本全国に広まっていった。
 

小山運動公園からみる筑波山の日の出


筑波山の頂上に昇る日の出
筑波山は茨城県南西部、八溝山地南端の山。標高876mで万葉の昔から詩歌に詠まれた関東の名山。
山頂に筑波山神社が祀られ、男体・女体の2峰にわかれる。基盤は花崗岩。関東平野に突き出ているので郵政省・警察・NHKなど電波中継地のほか、東大地震研究所やわが国初の山岳測候所がある。
頂上からの眺望はすばらしくハイキングに好適。登山にはケ−ブルカ−やロ−プウェイの便がある。
小山運動公園は野球やテニスばかりでなく、ジョギングや散を楽しむ人も多い。池では釣り竿をたれる人、遊具で子供を遊ばせる若い母親たち、みんまに親しまれている憩いの場所だ。
まだ薄暗い冬の朝、白い息を吐きながら走る2つの影。夫婦仲良く健康づくりに努めている。もうすぐ夜明けだ。紅い太陽が筑波山のてっぺんから顔を出すのを見届け、また走りだす。
北の方に「寺野東遺跡」がある。縄文人も筑波山から昇る朝日を見て、1日のスタ−トをきったのかもしれない。
 

日枝神社参道のケヤキ

3本の古木に圧倒される
喜沢分岐点の手前、旧国道4号線線沿いに日枝神社の表参道を示す一の鳥居がある。
幅3m足らずの道を挟んで3本のケヤキの大木が立ち並ぶ。高さはいずれも30mを超し、太さも4〜6m。樹齢は400年以上と推定される古木で、平成5年(1993)5月1日、市の天然記念物に指定。
拝殿は、参道を分断した4号線にすぐ面して建つ。











 

道標(鰹節棒杭)


形が鰹節に似ている道標
道標は鉢形地区、新4号国道の交差点近くにある。固そうな自然石を利用した尖った形だ。「鰹節に似ているから“かつぶし棒杭”」と呼ばれている。
嘉永4年(1851)の造立で、高さは140p。正面に「西 大町新田(羽川)−」と刻まれている。いまの案内板は、車中心の高い所に設置されている。これも時代の流れだろうか。










 

かんぴょう干し

栃木の名産、かんぴょう干しは夏の風物語
かんぴょうはウリ科の1年生つる草、ユウガオの実をヒモ状に細く薄く、そして長くむいて乾燥させたもので、本県が誇る特産物。正徳2年(1712)、壬生の領主となった鳥居伊賀守忠英が殖産振興のため旧領地である近江国(滋賀県)からかんぴょうの種を取り寄せ、栽培を奨励したのがその始まりといわれる。
白い花が、楚々として夏の夕方にそっと咲くさまから名付けられた「夕顔」の実。初夏の「花あわせ」が終わると2週間位で薄緑色のバスケットボ−ル大になる。
重さ5〜7sのかんぴょうは、いまは機械で一気にむかれ、幅4p位で長さはなんと50mにも達する。丸1日天日で干すと色の白い品質の良いかんぴょうができ、重さは200g位までになってしまう。
玉子とじなどのお吸い物の他、寿司屋のかんぴょう巻きにはかかせない。栽培農家は天気とにらめっこで、夕立の気配がすると一家総出でかんぴょうを取り込む。この作業は暑い8月いっぱい続く。
   
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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